寺スが綴るコラム

日本人の風景

「幼い頃の風景」日本人の風景#1

幼い頃の記憶に残る風景を思い出すと「うっとり」してしまいます。

それでもそのような風景は無限に浮かぶわけでなく数が限られているようです。記憶が定着化する仕組みからいうと、私が生きてきたここ60年近くの時間をかけて、頭の中で知らぬうちに何回も何回もこれら風景を再現していたともいえます。不思議と、これら再現するに値すると選ばれた風景は決して印象的な風景ではありません。家の玄関を開けた時に目に飛び込んできた大きな入道雲とか、神社の境内から見下ろすキラキラ光る田んぼとか、雨上がりの帰り道歩道に湧いていた陽炎とか・・・日常の中で「ふと」目に映った映像です。

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「ふと」目に映るの意味は「無意識」の心境でそこに私が居たことに他なりません。そこには嬉しいとか悲しいとか悔しいといった感情は存在していません。"ただ"そこに私は立っていたのでしょう。無意識の景色が記憶に残り今は「うっとり」できるものへと醸成されるためには、このように景色の中に"ただ"立つことが必要なようです。

私はその風景が、日本の鹿児島の田上町の神社下の・・・と狭い一角に限られているにも関わらず、例えば一年中富士山を見て育った人に比べて劣っているとは全く思っていません。スイスのアルプスを、ニューヨークの摩天楼を、モンゴルの満点の星空を見て育った人々にも劣ってはいません。なぜなら私にとって唯一無二の風景なのですから比べようがないのです。


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日本への愛国心を持つことをこれまでの歴史や個々の主義の観点から否定する方がいます。彼らの主張を聞かされるたびに、日本で育つ宿命を持つ子どもたちの風景をも否定されないか心配でなりません。憧憬の否定は自己否定に他なりません。幼い頃の風景を思い出した時に、そこには幸福感と同時に、育まれた家族、町、県、日本への愛おしさや誇りが芽生えるのはごく自然なことです。その事をナショナリズムなんだと言われるのだとしたら、議論の余地もないとシンプルに思うだけです。



さとやま遊人郷プロジェクト代表 米山兼二郎