寺スが綴るコラム

日本人の風景

「脇元の思い出 その3」日本人の風景#6

沼津の宝珠院の管長は女性である。管長の長女が副管長を務め、さらに次女も僧侶といった女系寺である。私と脇元はいつも大歓迎を受けた。駿河湾の魚はもとより、全国の檀家から送られてくるお酒や珍しい産物に舌鼓を打った。そして毎晩のように貴賓室に泊めてもらった。まさに極楽、遊戯(ゆげ)の世界である。ここで断っておくが、私と脇元だけが特別扱いされていたわけではない。宝珠院では、どんなお客に対しても誠心誠意、真心の行き届いた「おもてなし」がなされる。私も人並みに著名な旅館やホテルを経験しているが、未だかつて宝珠院に勝る「おもてなし」を受けたことはない。


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宝珠院の「おもてなし」は「おもいやり」と同義語といえる。お寺に訪れる客人は、ほとんどが悩みを抱えて訪ねてくる通りすがりの旅人たちである。彼らに喜んでもらうには何をして差し上げたらいいのか?それを瞬時に探り当てて提供する。根底にある能力は想像力といってよい。他人の気持ちを汲み取る想像力。そこに損得勘定などはなく、一期一会の旅人とのご縁を喜び楽しみ、そして感謝する純粋な気持ちだけが存在する。お布施が「気持ち」の表れだとしたら、私と脇元は管長たちから数え切れないほどのお布施をいただいた(世間ではお坊様にお布施を差し上げるものだが、私たちの場合その逆であった)。それは美味しい食事や温かい布団といったものだけではなく、優しい励ましの言葉だったり笑顔だったりした。


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これだけの「おもてなし」を形にするにはそれなりの資金が必要となるが、お寺の経済は基本「お布施」で支えられている。とはいえ、個々のおもてなしのサービスが書かれたメニュー表があって金額が決まっているわけではない。檀家や客人は、感謝の気持をお金やお礼の品、あるいはお礼の言葉や笑顔といった、各人それぞれのお布施の形にして置いていく。気持ちを形や金額の大小といった相対的な価値で比較することはできない。「ありがとう」の気持ちは金額に関係なく絶対的なものだからである。ちょうどその頃、藻谷浩介氏の「里山資本主義」がベストセラーになった。私は漠然とそのネーミングが気に入った。お寺は大昔から里山資本主義を実現している。さらに言えば、日本に西洋から資本主義が入ってくる前までは、地域共同体のあちらこちらに里山資本主義が息づいていた。だいぶ前に脇元に諭されて描いた「さとやま遊人郷」という絵が、知らずしらずのうちに「宝珠院」、「里山資本主義」とクロスし始めていた。


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さとやま遊人郷プロジェクト代表 米山兼二郎